ゲームプランナー · 野良作家

コンテンツ格差1995

1995年の冬。
大学受験のために、本厚木のホテルに泊まっていました。
ホテルのテレビで、偶然放映していたのは「新世紀エヴァンゲリオン」。

実家のあった静岡県清水市(現静岡市)は、地元のテレビ局しか無かったのでエヴァは放映していませんでした。
アニメ誌なんかでタイトル自体は知っていて、観たいなーと思っていたんですが、ネットもない当時、視聴するすべはありませんでした。PC-VANとNifty-Serveはありましたけど、ナローバンドですから動画なんて観られませんしそもそも公式に動画配信サービスなんて無かった頃です。

翌日試験を控えていたにもかかわらず、テレビに映ったエヴァを夢中で観てたのを覚えています。
静岡県外では、こんなの毎週観られるのか……って、衝撃でした。

その後いろいろあってその大学には行かず、神奈川県平塚市の神奈川大に進むことになります。

神奈川だとテレビ東京が観られたので、ひたすら観てました。アニメ。
だって静岡ではほとんど放映されていなかったですから。

ちなみに下のは、1995年当時に祖父の家にあったテレビ。モノクロです。
壊れなかったのでずっと使ってたんですよねコレ。

さすがにこれは特殊ケースで、うちも友達の家もカラーテレビでしたが。
チャンネルが少ないのはいっしょです。

で。

大人になって、コンテンツ制作に関わるようになって思うのは、子どもの頃に無意識に流れているコンテンツの量は、その後の成長に影響があるのではないか、ということ。
そしてそれは、2021年の今でもある(というより、より大きくなっている)と感じています。

確かに、YoutubeやNetflixなどストリーミングコンテンツは豊富にあります。
でもそれらって、スマホなりパソコンなりでアプリを立ち上げて観に行く必要があります。
テレビは、電源を入れればなんかやってます。
アニメも映画もドラマも、多種多様です。

ちょっとの差かもしれないけれど、このちょっとの差(コンテンツが「そこにある」か、「取りに行くか」)は、積み重ねていくととんでもない差になっていると感じています。

この「無意識に触れられるコンテンツ」の大小って、本人の努力ではどうしようもないです。

なんとなく流れているコンテンツは、ジャンルがバラバラです。
好きじゃないもの、自分では手に取らないようなものも流れてきます。

一方ネットコンテンツは、ユーザー分析が丁寧になされ、その人に好まれるモノが出てきます。
つまり、幅が狭まります。

「乱読」のようなことが置きにくくなっているんですよね。
頑張ればできるけど、それができるのは素地がある人に限られます。

だとするなら、かつてのテレビのような=無意識に多様なコンテンツが流れるメディア、って今何になるんでしょう。意外とここに、次のプラットフォームができるようなできないような気がしました。